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いよいよ出産へ。

背もたれのない硬いパイプ椅子で徹夜をし、カーテン越しに太陽の気配を感じた。陣痛室は陣痛測定器がたてる単調な機械音だけが唯一の音だ。しばらくしてドアの向こうが賑やかになってきた。従業員たちが出勤してきたのである。病院の朝は早い。陣痛間隔は短くなってきてはいるものの今すぐぽんと生まれそうな気配はない。夜中に鬼の助産師(いや助産師の鬼だったか)にしこたま説教されたぼくは廊下にでることもままならず立ったり座ったりしていた。座ったままだと腰が痛いからだ。

 

コーヒーでも飲んできたらと妻が言った。そうだねと言って立ち上がり廊下へ出た。それから自販機のある二階に階段でおりて缶コーヒーを買ってまた陣痛室のある三階に戻った。ぼくは廊下にある待合用の硬いソファに腰を下ろすとプルタブをあげコーヒーを飲んだ。微糖といいながら砂糖たっぷりの甘いコーヒーが口中に広がり喉へと落ちる前に身体に染み込んだ。ああ美味いなあ。廊下にはぼく以外誰もいなかった。ぼくはソファを独り占めしてなかば寝そべるような格好に姿勢を崩してだらしなくコーヒーを飲んだ。ああ美味いなあ。

 

すると突然目の前の扉が開いてスタッフが飛び出してきた。奥さん生まれますよ、これ着てください。突然のことに思考は停止しただ言われるままに紙でできた帽子とガウンを着る。これはその時慌てて撮影した一枚である。

さっきのスタッフがまた戻ってきた。それじゃあついてきてください。分娩室に入ると妻はすでに分娩台でスタンバっているだけでなく出産を開始していた。なんという急展開だ。ご主人はこの位置から絶対に動かないでくださいと言われ妻の頭の真後ろに立たされる。首を動かしたりして横から覗こうとすると、看護師がシッと言う。まるで猫でも追い払うかのようだ。どちらにしろお腹から向こうは大きなシートがかけてあって見えないのであるが。

 

はっきりいって分娩シーンでは男は完全に蚊帳の外だ。例外は産科医だけだが、その産科医も腕を組んで見ているだけというのは驚いた。出産を取り仕切るのは助産師の役目で、産科医は緊急事態にのみ出動するというスタイルのようだった。ほかの病院が同じかどうかは知らない。

 

さて、この分娩で長丁場になってしまうひともいるようだが、妻の場合二十分もしないうちに、生まれた。いや生んだ。ほええええという赤ん坊の泣き声がした。肺に酸素が一気に流入しそれが全身に送り込まれる。この瞬間に青ちゃんは赤ちゃんになる。

 

このときの感情をどう表現したものか。まず口がきけなかった。何かしゃべろうとしたら涙腺が崩壊しそうだったからだ。そしたら堰を切って大泣きしてしまいそうな自分が想像できて、固く口を閉ざしていた。生まれましたよと言われてぼくはうんうんと頷いた。妻はやりきった表情で実に清々しい顔をしていた。一大事業を成し遂げたそんな顔だ。実際そうなのだろう。妊娠から出産までの壮大な事業だったのだ。看護師からアウトカムを手渡されて胸に抱き涙を流して喜んでいた。

 

ぼくは震える手を固く握りしめただうんうんと頷いていた。涙腺が落ち着くまでうんうんと言っているしかなかった。

 

ひとつ言えることは、生まれたての赤ちゃんはしわくちゃでかわいくないという流説はまったくのデタラメだということだ。めちゃくちゃかわいいぜ!