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ambivalenz

子どものいない頃の話である。

子育てしている親たちの不平不満を実際に或いはメディアを通して聞く度にいつも同じことが頭に浮かんでいた。

自分で好きで子どもを作ったのだから文句なんか言うんじゃねえ、と。

 

ところが自分が子どもを持つ立場になって今までの考えがまるきり間違いであることがわかった。子育てをする喜びと苦しみは両価性を持つのである。厳しいひとはぼくのことをご都合主義ととるかもしれないが、一方で人間経験しなくては真に理解できないことがあるのもまた事実、である。

 

子育ては楽しい。しかし同時に疲れる。基本全てがOut of controlである。いっその事コントロールしなければ楽かと言えばそれは単なる崩壊を意味するだけで、結局楽にはならない。

自分の疲労をなるべく最小限に抑えるにはコントロールを最低限に留めることが肝要である(らしい)と最近学びつつある。

 

そして時には息抜きも必要だ。子どもが保育園から帰宅して直後に始まる戦場のような夕食を終え風呂を終え後は寝かせるだけとなって、今日も無事に一日が過ごせました神様ご先祖様どうもありがとうと感謝して家を出る。

 

以前橘さんも書いていた映画のレイトショウを観に行くのである。夜9時過ぎに外を歩くことさえ久しぶりである。駅前にでれば夜の自由を謳歌する人々が行き交う。ぼくもかつてはその一部だったが、それは遠い遠い昔話のようでもある。

 

20代前半と思しきカップルが歩いてくる。真っ白に塗った顔面に毒々しい赤い口紅をした女性はなんの変哲もない白いTシャツを着ている。とてもデートで着るような服にはみえないが、Tシャツの真ん中にシャネルのロゴが墨一色でプリントされていて、なるほど彼女のアイデンティティは全てそこに投影されているらしいことがわかる。

 

1000円もしないようなTシャツがロゴ一つで5000円になる。これがブランドである。一度ブランドが確立されてしまえば最低限のコストで最大限の利益を生み出すことができる。ぼくは視認性抜群の他人に見せるためにつけられたそのロゴを眺めながらぼくのブランドとは何かを考えた。

 

「ゴジラ:キングオブモンスターズ」はハリウッドゴジラの2作目である。(ちなみにローランド・エメリッヒのゴジラはなかったことになっている)前作に引き続きレジェンダリー・ピクチャーズが制作を努めた。この制作会社は中国資本になっているので、必ず中国人の俳優が出演し、中国礼賛的描写が加わることになっている。

 

ゴジラは日本で生まれた怪獣だが、ゴジラのアイデンティティとブランドを確立したのはハリウッドではないかとこの映画を観て思う。日本のゴジラが素晴らしかったのは第一作目だけで、以降のゴジラはウルトラマンと戦う怪獣と変わらなくなってしまう。水爆実験で生まれた(または目覚めた)ゴジラは地球の人類に対する警鐘を鳴らす存在だった。ただめちゃくちゃやる暴君ではなく畏怖の対象だったはずである。それが回を重ねるごとに単なるスーパーヒーローと化していくゴジラはとても見ていられなかった。

 

アイコンとしてのゴジラは生きていたが、映画としてのゴジラは死んでいた。それを、

ハリウッドは神或いはそれに近い存在としての本来のゴジラに蘇らせたのである。ゴジラの在り方として、もっとも美しい形を日本ではなくハリウッドが作り上げたということだ。

 

「ゴジラ:キングオブモンスターズ」は他のレジェンダリー・ピクチャーズ映画に比べて中国が出すぎていない節度があり、往年のゴジラ映画のモチーフが数多く登場するのもまた好感が持てる。懐かしさを上手に美化した映画と言えよう。

 

ハリウッド版ゴジラは、日本人サッカー選手がヨーロッパで活躍するのを見ているような誇らしさがある。ここまで美しく描いてくれれば文句ない。結構おすすです。

(広げた風呂敷を回収してないとか言ってはいけません)

 

というふうに、子育ての息抜きをしてきた昨夜のことでした。