
子どもはかわいい。かわいくて仕方がない。しかし同時にとんでもなく頭にきてイラッとしてしまうことがある。どうしてこんなにかわいいのにイライラしてしまうのか。それはとくに子どもが言葉を理解するようになってから、親である私にそうした感情を呼び起こさせるようになったのではないかと思う。
言葉は偉大だ。私が言うまでもなくだ。言葉によるコミュニケーションが取れるようになってから子どもとふれあうのが一段と楽しくなったのは間違いない。タラちゃんみたいなあーうーの頃もかわいいが、話せるようになってからのかわいさというのは明らかにその質が違うのである。
しかし、その円滑な会話こそが誤解の原因でありミスコミュニケーションを生み、結果イラッとしてしまう要因となる。というのは、普段の生活において会話が不便なく成立してしまうと、その会話レベルと同等の理解力を子どもが持っていると大人が勘違いしてしまうことがある。ところが、発達段階の幼児にとって、SpeakingとUnderstandingにかなりの乖離が存在するのが現実だ。話せるからといって理解しているとは限らないというわけだ。なのに、大人である私はこんなに会話が成立しているのに話がまるで通じていないとイラッとする。明らかに反抗しているのではないときのイラだちはこれが理由ではないかと思うのである。
言えばわかる。本当だ。しかしこれはだいぶ端折った言い方で、言えばだいぶ経ってからわかる、が正解だ。そしてそのだいぶというのが曲者で、場合によっては1年とかそういうスパンの話である。育児をとして人間を試されているのである。育児は紛れもなく育自だ。そしてJEDIの道は遠い。