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成長の噴火

子育ての先輩たちは口を揃えて幼少期はあっという間であり今しかないことを強調する。

大の甘えん坊であり嫉妬深き兄である我が息子もお父さんにべったりな時期は本当に今しかないのだろうかと考えることがある。

子どもが独りの時間を持ち始めて親からだんだんと離れていくのは双方にとって良いことである。実際、3歳と4歳では手のかからなさ具合で言えばまさに隔世の感があるといっても言い過ぎではない。始終ボディガードのようにまとわりついていなければいけなかったのが3歳までである。4歳になって自転車に乗れるようになると当然親との距離はぐっと開く。

 

前だけは見ないのは相変わらずであり、大声を上げたときには自転車で頭から川にダイブしたのは驚いたが前だけは見ないのだから落ちるべくして落ちたともいえるので驚いたが笑ってしまった。

 

幸い溺れることもなく怪我もなくただ全身ヘドロにまみれて助け上げたぼくもヘドロまみれになっただけで済んだ。自転車に乗れば当然ぼくと息子の間にはある程度の距離が生じ、同時にある程度の危機管理を本人に委ねることになる。息子が3歳まではそんなこと絶対にできないと感じていたが、4歳になると4歳なりに任せても大丈夫なことがあることに気がついた。

 

なるほどこれが成長である。こうした任せても大丈夫なことが少しずつ増えることが成長であり、同時に親との距離も開いていく。時折息子の瞳には個人としての意志を強く感じることがある。「お、こいつ考えてるな。感じる強い意志を感じるぞ」ということがたまにある。

そうした意志の発芽はもっと前から始まっているのであるが、ここへきて急に目に見える形で枝葉を伸ばしてきたのだ。

 

そうすると親というのは矛盾したもので今までのまるで無垢な赤子時代を懐かしくなりそのようにかわいがってしまう。今の所息子はその境目を行ったり来たりしているが、やがて行ったぱなしになってしまうのだろう。行ったら行ったぱなしにしろと武士道二十三条にも書いてある。

 

四歳児 今日カラ独リデ寝ルカラネ エラヒエラト言ヒナガラ 涙ニ濡レル父ノ枕

 

 

息子は今自我が大爆発している。あるいはジャックと豆の木の豆の木のように尋常ならざる速度でもって蔦が空めがけて突き上がり地中にとどまらない根がアスファルトをぶち破っているそんな状態だ。だから本人は何でもできると思っている。精神的にはスーパーマンと同一である。ところが肉体が言うことをきかない。頭では思考がはるか先を飛んでいるにも関わらず、足はまるで杭で打ち付けられたかのように地面から離れない。そういうもどかしさを理屈のない感情だけで捉えているから苦しいのだろうと考えるのは大人の思考であり、本人はとにかく大爆発させさえすればいいのだから噴火噴火噴火噴火と毎日騒がしいこと此の上ない。

 

やかましいんじゃない にぎやかなんだ

 

妻などはあまりのうるささに時々切れているがぼくは割と平気でいる。それは決してこの騒がしさも今だけとか、やがて離れていってしまうのだからといったような感傷的な思いにとらわれて今の騒がしさを我慢しているわけではない。単純に平気なだけなのだ。どんなにうるさくてもいくらでも無視しようと思えばしていられるだけなのである。エンドレスの要求もNo means Noなのである。

 

ぼくはほぼ主夫をしているが、やはり根底にあるのは父性であり、それはつまり分断である。女性はNo means Noと言い切れない母性が支配的だから子どもの叫び声を無視できない。だから切れてしまうのだろう。黙らせるために。これはうちの妻に限ったことではなく女性全般に言えることではないかと思う。

 

話が横道に逸れた。とにかく肉体と精神が著しく乖離してしまっているのが四歳児であると、我が息子をみていて思う。まるで体が頭の成長に追いつかないのだ。フラストレーションはそこに始まりそれは要求という形で親にぶつけられる。ぼくはその要求の度合いを密かに楽しんでいる。なるほどそう来たかとか、そいつは驚いたとか、またそれかとか。

 

そうこうしているうちに肉体が少しずつ追いついてきて次の成長のステップへと上がっていくのだろう。そしてそれは思いの外早いのかもしれない。