
「摩訶般若波羅蜜多心経」
息子は食事で落ち着かない。
それがお菓子なら言わなくたってひとりで黙って黙々と食べるくせに、食事となると手を付けないでいつまでもだらだらしている。それでぼくが妻と会話をしていると必ず横槍を入れてきて自分の話を聞けと大声で叫びだす。「きーいーて!ねえ、きーいーて!」
「今しゃべってるでしょう!なんで途中から割り込んできていうの」
「ねえ、オレの話も聞いてよ〜!」
「わかったよ、なに?」
「じゃあさあ。恐竜の名前全部言ってあげよっか?」
「……べつに…」
息子の目の前に置いたご飯やスープにまったく手を付けていないので言う。
「それよりさあ、はやくご飯食べなよ」
「コエロフィシス、アンキロサウルス、ハドロサウルス…」
息子はぼくを無視して暗唱しだす。
「ねえ、お腹いっぱいなら無理に食べなくていいよ。ごちそうさまして降りなよ」
すると息子は、
「いやだ。食べる」
「じゃあ、食べてよ」
「オレが恐竜の名前全部言ってから」
「お腹空いてないんだったら無理に食べなくていいんだからね」
「いやだ。食べる」
「じゃあ、食べなよ」
「えっとじゃあさあ、アロサウルスって速い? 1200速い? オレ1200歳」
「……食べなよ」
こんな会話が繰り返されているうちにぼくも妻もそして妹さえご飯が終わっていく。
そしていつも息子の前だけに茶碗や皿が残っているのだ。それは今日もまた……。
今夜は一杯のスープが彼の目の前に残ったままになった。息子はぐずぐずと椅子に座ったままだ。ぼくは食器を洗いながら言った。
「おれが洗い終わるまでにそれ飲んでお椀をこっちにもってきてね」
すると息子は骨抜きのように体をぐにゃぐにゃさせた。
「おとうさん、食べさせて」
「やだ。自分で食べろ」
「おとーさん、たべさーしーてッ!」
「ほら洗い終わっちゃうよ。そしたらほんとに片すからね」
「おとーさん、たーべーさしてよーっ!」
「自分で食べなさい!」
「たーべーさーしーてっ!」
「もう洗い物終わっちゃうね」
こういうとき、よしよしじゃあお父さんが食べさせてあげよう、とか言って食べさせてやればいいのかもしれない。彼は甘えたいのである。そんなことは重々承知なのである。だけど今日はまったくそんな気になれず、こちらも意地になって絶対食べさせてやるもんかという気持ちになっていた。
息子はいつの間にか椅子から降りて妹とふざけだしていた。
「もういい!片す!明日のお菓子もなしだ!」
ぼくは強めにそう言うと脅しではないことを証明するために体を動かした。するとアニキは食べるから見ててくれと懇願する。とにかくぼくになにかさせないとヤツの気持ちも収まらないところにきていたのだ。ぼくも食べさすのはイヤだが見ているのは仕方のない妥協ポイントだと受け止めて、じゃあ見てるから早く食べろと言った。
最初は食卓から離れたソファから見ていたが、妹がぼくに本をもってきて一緒にみようと寄ってきたので彼にぼくを独り占めしたい意識が働きもっと近くでみるように要請する。
ぼくも妹に構っていたら埒があかないのでテーブルの向かいに座ってやった。
息子はそれでようやく気が収まったようで、すっかり冷え切ったスープをちびちびスプーンですくって食べだした。この調子ではスープ一杯に一体何時間かかるのか。ぼくはそのちびちびだらだらを見ていると腹が立ってイライラしないわけにはいかない。
アームカツクアームカツク、ツクツクツクツクアームカツク。
ぼくの腹の中でムカツクボウシが鳴き出した。
いかんいかんいかん。こんなことで腹を立ててはいかん。相手はたったの5歳だ。甘えたいだけなのだ。存分に甘えさせてやれ。いやそれはできない。やるんだ。無理です。お前ならできる。
USE THE FORCE.
I TRIED BUT, IT'S TOO BIG.
TRY? TRY NOT. DO OR DO NOT. THERE IS NO TRY.
♪ヨーダのテーマ流れる♪
息子のスープは100%が95%になった程度にしか減っていない。修行不足のぼくにダークサイドが手招きをする。このままではいけない。このままでは怒りが爆発してしまう。そこではたとぼくは思いついた。そしておもむろに最初は心の中で、そして次第に口に出して般若心経を唱え始めたのでございます。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色色即是空 空即是色……
最初子どもたちは何事がはじまったのかと目を丸くし、つぎにどうやらお父さんが面白いことをやっているらしいと悟り喜びだして、息子のスープを飲むペースが上がった。
そして般若心経を唱えること三周目。ついに息子はひとりでスープを飲みきることに成功したのであった。ちーん。