
「我が家の日常」
お父さん、1200まで数えて。
嫌だよ。
なんで? 数えてよ〜。
自分で数えなよ。
平日は朝6時に起床する。
保育園に行くのと同じ時間に毎朝起きるくせをつけるためだ。朝ごはんが終わったら家族みんなで天祖神社まで散歩に出る。これは雨が降ってもでる。朝一度外出することでうちでぐたぐたしてしまうのを防ぐ目的がある。そしてこれは効く。
この散歩に最近加えたのが、ゴミ拾いである。神社までの道中に落ちているゴミを拾って歩くのだ。そのために火ばさみを購入した。そもそもゴミ拾いをしようと思い立ったきっかけがある。子どもたちは歩いているあいだじゅう何かと地面に落ちているものを拾いたがる習性がある。ある日、天祖神社へ向かう通り道にある亀戸天神の境内で娘が丁寧に小石を拾っていた。文字通り、一粒ひとつぶ大事そうに拾うのである。そのとき娘が砂利ではない何かを手に持っていることに気がついた。ぼくはとっさに娘の手を払った。煙草の吸殻だった。もし娘が口に入れていたりしたらと考えると背筋がゾッとした。
そしてその時思いついたのである。
捨てた人間に文句を言っても始まらない。見渡せばあたりは吸い殻やお菓子のパッケージやらでゴミだらけだ。せめて道中くらいきれいにしようと思ったのである。
そのアイデアはすぐさま妻に受け入れられて翌日から実行した。恐ろしいことに、スーパーのLサイズの袋がいっぱいになった。ゴミのほとんどはタバコだが、空き缶、ペットボトル、レシート、様々な袋、カップ麺のカップと割り箸、なんだかよくわからないゴミなどが道路にこれでもかと落ちているのだ。
そしてそれは次の日もそのまた次の日も袋がいっぱいになった。おかげで長男はゴミを見つける達人になったし、妹はタバコの吸い殻に触れなくなった。両親が毎日拾う姿を見て、触ってはいけないものという認識がついたのだ。
ぼくは決して街中ゴミ拾いをして歩くつもりは毛頭ない。ただ、毎日自分たちが歩く道くらいはきれいにしていたいと思うだけである。そして今日もまた昨日ポイ捨てされたゴミでビニール袋がいっぱいになった。
毎日ゴミ拾いを続けていることで、むしろ子どもたちのほうがゴミに敏感になった。公園に落ちているゴミを見つけて「お父さんゴミゴミ!」と教えてくれるようになったからだ。それは今までにない新しい物の見方を親の背中を通して教えてあげられたような気がして、ぼくはなんだか嬉しかった。
そしてぼく自身もゴミ拾いを通じてこころの持ち方を変えることができたように思う。最初は、自分が言い出しっぺにも関わらず、ゴミを拾う姿をひとに見られるのが恥ずかしかったのだ。偽善者?みたいな。でも、そういう態度を勝手にとるのはぼく自身であって、ゴミ拾いを偽善の行為に利用するひとはいても、ぼくはそうじゃないというごく当たり前の事実(ただ子どもを守りたかっただけ)をぼくのこころが受け止めてからすっと楽になったのである。そしたらぼくの態度や振る舞いが自然になったのである。
もっともこれは他の人がみても変わったなとは思わなかったかもしれない。ただぼくのこころの内で起こった大きな変化だった。
息子は次々に非常に小さいゴミを指して教えてくれる。「お父さん、ここここ!」
それを拾いながらあまり範囲を広げないようにという。毎日続けることが大事なんだから今日全部拾おうと思わなくていいと教えている。息子は少し不満そうだ。ゴミ拾いでさえ遊びに変える子どもの力はすばらしい!