
「キミトハシル」
葛西臨海公園へ鳥を見に行こうと約束してから、楽しみにしていたのはキミだけじゃないんだよ。
南風がびゅうびゅうと吹いていて、とても鳥なんかいやしないだろうなと思ったけれど、ほんとうは鳥なんていなくたってよかったのさ。いや、すこしくらいはいないと困るけれども、まるきりいないなんてこともないのさ。
ぼくにとっては珍しくもなんともないムクドリやヒヨドリでさえ、キミにとってはまるで黄金を発見したのとおなじくらいのよろこびがあるんだね。うっかりぼくが全然鳥がいないねなんて言ったら、キミは全然じゃないよ、ムクドリもヒヨドリもドバドもキジバトもカラスもスズメもカルガモも見たでしょ。こーんなにたくさん見たじゃないって諭されちゃった。

南へ向かうのに、こんなに強い南風ってないね。飛んでるアオサギだって、まるで空で止まっているみたいだ。ドバトは吹き返されて諦めて降りていったよ。キミの自転車が進まないのはキミのせいじゃないさ。ほら、ロードバイクに乗る大人たちだってずいぶん辛そうにしてるだろ。
あんまり風が強いから、なんども休憩をいれたね。でもいいんだよ。そのために食糧をいっぱい買ったんだから。妹がいないからチョコの入ったパンでも食べたまえ。

「ねえおとうさん。なんで高速道路はトラックいっぱい走ってるの」
「今日は土曜日だから、いつもよか少ないほうだよ。普段ならもっとトラックだらけさ」
「なんで」
「それだけみんなに届ける荷物がたくさんあるってことさ」
高速だの国道だの鉄道だのの下をくぐり抜ければ荒川が終わっていよいよ海が広がっている。
「ねえおとうさん、もう海」の言葉に「海だよ」とようやく返事ができるところまで来た。海を目前にして向かい風はいよいよ荒ぶって、それはまるで押し戻されそうになるほどにキミのちいさな体を揺さぶっている。それでもキミは力を込めて、弱音ひとつ吐かないで淡々と走り抜けたね。

ほら、あれがウシガエルさ。どうだい大きいだろう。まるで置き物みたいに微動だにしない。ずーっと眺めてたけどじーっとしていたね。鳥だけが楽しみじゃないさ。ここには見たことない生き物がいっぱいさ。もっとも動物園と違って、いつでも見られるわけではないけどね。
コバルトブルーに輝くイトトンボを見つけたのはキミの手柄さ。ぼくはキミがほらほらと指す先を目を凝らしてみたけど見つけられなかった。ちょっと悔しかったぜ。そしてようやく見つけたと思ったら、あたりはイトトンボだらけだったのには驚いたね。いつも視野を広くなんて言ってるぼくは穴があったら入りたかったよ。

森のなかは風がやむ。木がみんな風を吸い込んで、ぼくらはほっと息をつく。するとどうだろう。遠くでホトトギスが啼いている。それから、名前の知らない鳥が美しい声を響かせていた。
潮が引いて干潟が顔をだし、地面を無数のカニが顔をだす。干潟のカニを見たことがないキミは目の前のカニが見つからない。ほら、ぜんぶカニだよ。一匹じゃないよ。何百匹っているよ。指を指しようのないぬかるみにキミは目を凝らす。もどかしい。キミももどかしいがぼくももどかしい。そして。あっ。目の前の風景にカニを認めたキミの頭がつながった。うわ。カニだ。カニだ。そうだよカニだよ。カニだらけだよ。

コチドリと、アカアシシギと、それからシギの仲間をいくつかと、チドリの仲間が干潟にやってきて露出したどろの中へ忙しそうにくちばしを突っ込んでいた。全然いなくてもいいなんて言ったけど、やっぱり見られるとうれしいね。いつの間にかキミは松ぼっくりを拾って、大事そうにポケットにいれたっけ。

強い南風が吹いている。これなら帰りはびゅんびゅんさ。追い風の力だけで自転車が進む。でもキミは……。そうか体が小さいから帆にならないんだね。それに疲労困憊だ。行きとおんなじように、帰りも自分の力で漕がなければいけない。途中でなんどもなんどもなんども休憩をして、休みたいとは言ったけど、もうイヤだとは言わなかった。べそをかくこともなく、駄々をこねることもなく、えらいやまったくキミってやつは。そしてやったよついに帰ってきたよ。
総距離28.8キロはキミの最長記録だね。そんなキミがぼくは誇らしいや。
