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The Golden Month : DAY 30

「5歳に期待すること」

 

本日でブログを続けて名実ともに1ヶ月になった。当初の予定なら3週間で、なのにMonthなんてつけてしまったが、結局1ヶ月を超える事態に発展しタイトル通りとなった。

 

5歳児というのは、会話することにおいて不自由がなくなる年齢である。語彙力が乏しいことと、経験値が少ないことにより説明が必要なケースは多々あるが、それで日常会話に支障を来たすことはほぼない。その点が4歳と5歳の決定的な違いだと我が子のケースではあるがそう感じる。

 

ところが、このスムーズな会話力が時として必要以上にぼくをイライラさせる原因になる。例えば、妹とふざけあうシーンがある。よくある風景だが、度が過ぎてこのままでは妹が怪我するか、少なくとも泣くかというシチュエーションである。ぼくは見過ごすことができないので止める。

「やめなさい」

ゲラゲラゲラゲラ。いひひひひひ。

「ねえ、もう一回言うよ。やめなさい」ゲラゲラゲラゲラ。いひひひひひ。

「いい加減にしなさい!ほら妹が嫌がってるじゃないか!」

ゲラゲラゲラゲラ。いひひひひひ。

「やりすぎだ!やめろって!」

ゲラゲラゲラゲラ。いひひひひひ。

「もうおやつなしっ!!!」

ぎゃーっ。ぐおおおお!やめるって〜っ。もうやめるから〜。(号泣)

 

度を越した悪ふざけやいたずらは日常茶飯事だが、同時に何某かのペナルティを与えると脅さないとやめない点もまた共通している。だからぼくは先回りして「なにか罰を与えないとキミはやめられないのか?」と言ったりもするがその言葉でやめたことは一度もない。

 

こうした一日に何十回と繰り返される辟易するやり取りの中でぼくはある種の発見をした。

会話が通じることと理解することは同じではない、ということである。

 

いやいや子どもはわかっててやらないだけなんだ。それは親に甘えているからなんだ。そう言うむきもあるだろう。例えば保育園の先生なら一声でやめるのに親ではやめないのは、甘えが根底にあるからだというかもしれない。なるほどそれはもっともらしいが、ぼくはそういう風には思わない。

 

先生の一言は親の繰り出す最後の罰と同じではないかと思う。それはこちらの要請に従うまでの時間が違うだけで、結局ペナルティを提示した瞬間にやめるのは同じではないだろうか。

ぼく(ら)は会話が通じることで字義通りの理解を瞬時にもとめてしまうが、子どもはその言葉がもたらす正確な意味を理解しておらず、ただ自分の不利益を解消するために行為を中断している。

 

こう考えるとぼくが楽になる。

 

おんなじことを何度も何度も何度も!

なんで声を荒げないと言うことを聞けないんだ!

 

という感情も、実はまだわかっていないと思えば多少こころも落ち着こう。

 

なぜ妹とふざけあってはいけないのか。

なぜ自分がはしゃぎすぎてはいけないのか。

なぜ自分のしたいことだけをしてはいけないのか。

なぜ独り占めしてはいけないのか。

などなど。

 

過ぎたるは及ばざるが如しを今彼に求めることは結局ぼく自身が苦しくなるだけである。また、息子が理解できないうちにこちらの求める意味を強要することはただ恐怖で統治する帝国軍と同じであり、それは上辺だけのそんたくん(忖度ん=忖度君ね、一応)を作り上げてしまうことにもなりかねない。

 

圧制のもとに反逆の精神は高まりついにはデス・スターを破壊するまでに成長してしまう。つまり、ぼくが帝国軍になってはいけないということである。怒りは恐怖につながり最終的にはダークサイドに通じるとマスター・ヨーダも言っていたではないか。

 

息子の未来の理解につなげるために、今日ぼくは自分の修行に取り組むのだ。JEDIの道は険しい。