
「裏腹な親心」
子どもなんだから、外へ出て駆けずり回って、泥だらけになって遊んで欲しい。ぼくはいつだってそう思っていました。汚れることなんか気にするな。力いっぱい遊んでこい!いつだってそんな気持ちです。なにしろ子どもはAKUなんです。アブナイ、キタナイ、ウルサイ。だから、キタナイというのは子どもであることのバロメータでもあるんです。
今日もまた朝から公園に出陣した。
どこへ行きたいと息子へ聞くと高架下の遊具があるところという。またあそこかと思わないでもないが、頭の上を走る高速道路が日差しを遮ってくれるから今日みたいに暑い日は親にとってもありがたい。
そこは川が暗渠になっていてその上が公園やフットサルコートや様々なスペースが作られている。そしてその上を川に沿うようにして高速道路が走っているのだ。そこそこ大きな遊具があるが、数少ない閉鎖を免れた公園であるため午前中から多くの家族で賑わっている。
子どもたちは公園に到着するなり飛び出すようにして遊具に登り始めた。しかしまあよく飽きもせず何度も何度も滑り台を降りちゃあ登り降りちゃあ登りを繰り返せるものである。そして着地したときに足で立てればいいのだが、勢い余って地面に転がったりしている。それがまた楽しいようで二度目以降はわざと転がっている始末だ。
滑り台にようやく飽きると妹は地面にかがんで砂をかき集めてそれをぼくにくれはじめる。両手で受け止めろという強要でもある。ここの公園は完全人工施設のため、地面はとても目の細かい砂で覆っている。砂場の砂よりもずっと細かいその粒子のせいで、触れたところが真っ白になる。だから靴はもとより、砂を触った手も真っ白になりただでさえ手洗いのしすぎで乾燥した肌の最後の水分を持っていく。
ふと息子をみれば全身真っ白になっている。地面に平気で寝っ転がるから当然だ。それはまるでスヌーピーに出てくるいつも埃だらけのキャラクターのようだ。ピッグペン(Pigpen)という名のあの少年はなぜいつも真っ黒なのか他の少年たちが疑問に思ってお風呂にいれてピカピカにするんだけれども、家を出て何歩が歩くとあっという間にいつもどおりの真っ黒くんになってしまう。それで友人たちは困惑した表情を浮かべる。ぼくの息子をみているとまさにピッグペンそのものである。
んがーなんだよもう!なんでそんなにきたないんだーっ!お前全身真っ白じゃないか。あっまた寝た。あっまた座った。ぼくが真っ白になった息子の服を叩くともうもうと白い煙があがった。帰ったら着替えだかんな。あこら、その手でぼくに触んな。あっもう。
あれ、言っていることが違うんじゃないかって?そうなんです。子育てというのはアンビバレントなことの連続なのです。野山(ないけどね)を駆け回る子どもの姿に理想を見ながらも、汚いのねやーねとため息をつく。泥だらけ結構、大いに遊べ。と思っているのは事実なのだ。同時に真っ黒(ここの場合は真っ白)じゃないか、泥だらけにならないで大いに遊べないものかと思うのである。
そんなぼくの都合などお構いなしに今日も息子は地面に転がりまわり、娘はせっせと小石をポケットに詰める。そして彼らの嬉しそうな顔といったらない。そうかそうかそんなに楽しいか。それならいいよ。好きにしといで。真っ白だろうが真っ黒だろうがなりたいだけなってくるがいいさ(と言いながらあと略)。