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The Golden Month : DAY 39

「ぼくのペース、子どものペース」

 

ぼくはロードバイクが趣味である。とくにロードバイクという競技用の自転車で山をひたすら登るヒルクライムが好きだった。子どもができる以前は毎週のように夫婦で山に走りに行っていた。10キロ、20キロ先の山頂(本当の意味での山頂ではなくて、道路で登れる最高地点)目指してひたすらペダルを回す。心拍数が跳ね上がり、足の筋肉に強い倦怠感を覚えながらじりじりと登っていく。そのスピードの遅さにハンドルに置いた手の甲にハエが停まるくらいだが、終盤になるとそのハエを振り払う力を使うのも惜しいほどに苦しい。

 

見上げれば無限に続くかのようなつづら折りが重なって心が折れそうになる。やがて一緒に走っていた友人たちもそれぞれのペースで散り散りになって、誰もいない山道をひとりだけで登ることになる。速度が遅いから、自転車に乗っているのに風を切る音がしない。春ならば野鳥の囀りが谷間に響き、夏ならばセミの合唱が梢を渡り、冬ならば静寂。

 

そうした中を登っているとき、心拍数が異常に上昇し、呼吸が早くなりすぎてどうしようもなく苦しくなる瞬間がある。ペダリングが乱れ、体が揺れる。誤って水槽を飛び出してしまった金魚のように口をパクパクパクしているだけで酸素が入ってこない。バイクを止めたい。足をつきたい。苦しい。くるしいくるしい。

 

これと似たような感覚が、子育てにもある。

もちろん育児で本当に呼吸困難に陥るわけではないが、心理的に呼吸困難を感じることがある。ただ自宅に向かって歩いているだけなのに5分の道のりが30分かかる。道路のありとあらゆるものが遊びの対象になる子供らにとって、いちいち立ち止まらない理由はない。少し高い縁石があればジャンプ台に早変わりするし、植え込みにダンゴムシを発見すればダンゴムシ集めに夢中になる。よじ登れそうなものは一通りよじ登らないと気が済まないし、駐車してある車のボディに映る歪んだ自分の姿を見ていつまでも楽しんでいられる。

 

はやく帰りたいぼくはイライライラッとする。何度も先に進もうと言っても一向に埒が明かない。三歩進んで二歩下がるを地で行く牛歩の如く。腹の中がムカムカムカッとしてくる。頭のイライライラと腹のムカムカムカが合わさって胸が苦しくなる。まるで息苦しいではないか。そのときぼくはこの感覚はヒルクライムのときと同じだと直感した。どうしようもなく苦しくなる瞬間。かたやフィジカルに、かたやメンタルに。

 

つまりそれは自分のペースを著しく乱されたときに起こる呼吸困難だ。ヒルクライムのとき、ぼくはわざとゆっくり深呼吸をする。口をすぼめてゆっくりと息を吸い、そして吐く。そしてパニックを防ぎ、自分のペースを取り戻すのだ。やがて呼吸が落ち着き、心が落ち着く。苦しいことには変わりはない。しかし心拍数が170bpmを刻んでいても、心が落ち着いているのでまたぼくは淡々とペダルを回していくことができる。

 

子どもらを前にして、心理的呼吸困難に陥った時もやはりぼくは深呼吸をする。口をすぼめてゆっくりと吸い、そして吐く。ただ進まないことに自分の心を乱すのを沈めていく。進まないことで問題になることはなにか、を考える。今日は別に急いでいない。ただ自分のペースでさっさと帰りたかっただけだった。子どもにとって遊び場はなにも公園である必要などない。道中もまた遊び場である。ただ公園とちがって危険が多い。ぼくは自分がその気疲れをするのを嫌っていた。だれだって好きなひとはいないだろう。ならばガードレールのある歩道なら多少時間がかかってもいいのではないか。ここで遊ぶのも公園で遊ぶのも同じだと思えば、公園で遊ぶ時間が短くなったところで困るものはいない。

 

ぼくのペースと子どものペースは違う。ヒルクライムでは乱れたペースを深呼吸で取り戻したが、子育ての場合ペースが乱れたら(大抵乱れるのだ)新しいペースを自分の中で作りだす。ひとりでいるときと違う、家族のペースを心の中で生み出せれば育児はぐっと楽になる。

 

心が落ち着くと、ある言葉が心に浮かぶ。

 

「まあいいか」