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The Golden Months : DAY 43

「ONE WEEK TO GO」

 

本日緊急事態宣言が解除された。それで保育園が再開するかとおもいきや、強気の江東区は今月いっぱいは閉めると言い切った。まあいい。あと一週間だ。AT LAST ! FINALLY !

見上げればゴールゲートが視界に入る。あそこまで。あともう少し。

 

振り返ってみれば(まだ終わってないが)、父親というのは実に悲しい存在である。子どもらは普段ぼくを慕ってくれているし、ぼくも全力で子どもたちの相手をしているのに、例えば公園でママ友が現れるとぼくの存在など忘れてしまったかのようにそのママ友につきまとう。

 

我が子たちはどちらも節操がないというか、物怖じしない性格なので他人であってもガンガン行く。そのママにも自分の子どもが当然いるわけなのになぜかほとんど横取りに近い形になっている。だからぼくが代わりによその子の相手をそういうときはすることになる。父ってなんだろ。

 

娘は特にチチよりもハハハで、それはよそのハハであってもその態度を貫く。お気に入りのママが偶然にも現れると手をつないで離さない。ぼくは仕方なく手持ち無沙汰にその後ろをうろうろしたりする。そんなときの娘はぼくの掛け声など聞こえやしない。ぼくってなんだろ。

 

当然リアルハハの登場はぼくという存在を一瞬にして吹き消す。今日なんて娘と仲良くお風呂に入っていて、「おとうさん好き」だの「おとうさん好き」だの「おとうさん好き」だの言っていたのに、外の物音に敏感に反応し扉を見つめぼくがお母さんだよと言うなり「出る!」だって。お父さんはね、もうちょっとキミとお風呂に温まっていたかったよ。

 

父親がどれだけ育児に参加しようと、幼児は母を求める。それは切り捨ての父性、抱擁の母性というのを本能的に知っているからではないかと思う。それは家事や子どもの世話といった形で覆い隠すことができない人間の根源なのだ。100%保護を必要とする幼児期の子どもたちは直感でそれを見抜き、たとえ他人であっても「ママ」にその身を預けようとする。

 

このことは、世の父親諸君はよくよく理解しておいたほうがいいだろう。幼児期の子どもが母親寄りになるのは当然のことなのだ。しかし、それは幼児期の話でありやがて個人としてより一層自立を深めていく年齢に達するとき、ぼくらの存在が大きな役割を果たすことになる。

 

そして、おそらくハハヨリの幼児期にどれだけ子どもたちと関わりをもったかということが半ば逆説的であるがその後の父復権に大きな影響を及ぼすのではないかと今ぼくはぼんやり考えている。育児はアンビバレンスだ。表と裏が同時に存在する世界なのだ。