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育児家事分担は五分五分が正解か?

 

 

 

 

五分五分というのはときとしてそれがもっともフェアなことになる。しかし、こと育児家事について、五分五分を求めることが必ずしも良いことであるとは限らないのではないかと思う今日このごろ。

 

 

 

パパ友やイベントで出会うパパさんたちに聞くと、家事を分担制にしているという家庭はとても多い。というか、むしろうちでは分担制にはしないというと驚かれることのほうが珍しくない。ではなぜ、我が家では家事分担制をとらないのかについてちょっと書いてみたいと思う。

 

 

 

それにはまず分担制のメリット・デメリットについて考えてみたい。なにをするのか予め分けておくということは、その決まった量の仕事さえこなせばとりあえずよいことになる。洗濯と皿洗い、トイレ掃除は夫、料理と風呂掃除は妻とか。家事を2つに分けてそれぞれが担当してしまえばこれほど合理的なものはないだろう。夫婦双方がその分業に同意し納得していれば問題ない、はずである。

 

 

 

ところが、実際は問題が起きている。問題というのは大小を問わず夫婦不和の原因になっているということである。なぜか。分担制を好むのはどちらかというと男性側であることが多い。論理的に分割し、それぞれがその担当をこなせばこれほどフェアなことはなく、文句のつけようがなく、すべて丸く収まること間違いなしと考える。それに、論理的に納得しているのになぜ不満がでるのかむしろそちらのほうがわからないのではないだろうか。納得がいかないというのなら再び論理的に分割をし直そうと提案さえしてしまう。これが結果火に油を注ぐことになるのだが。

 

 

 

ここに分担制のデメリットがあると私は考えている。第一に、自分の持ち分さえやっていれば良いと考えがちになってしまう。第二に、仕事が忙しかったり、気分が優れなかったりして持ち分がこなせないとき、自分ができないことにプレッシャーを感じたり、相手がやらないことに不満を覚えたりしてしまう。自分は仕事が忙しくてもちゃんとやっているのにフェアではない、というわけである。もし五分五分をフェアと呼ぶのならその考えは正しいが、はたして五分五分はフェアなんだろうか。私が我が家で五分五分或いは分担制を採用しない理由がここにある。

 

 

 

では我が家では家事育児をどうしているのか。それは手が空いているほうがやる、につきる。この場合、その割合は五分五分どころか、8:2、9:1、そして更に言えば10:0なんてことになる。これで良いのである。ちょっと待って、それじゃあなにもしない配偶者を横目に一人で全部やれっていうの。と思うのは早合点というものです。この手隙者家事制は相手がなにもしないのではなく、相手は何か他の仕事をしているというのが前提なのです。仕事の忙しさと言っても、二人の忙しさはまったく同じではないはずだ。だから一方が多く家事をするのは当然と考えている。家事ができないのは仕方がないからであって、やりたくないからしないと考えたとき、この手隙者家事制は崩壊する。家事育児はしなければいけないものである。手が空いたら積極的に自ら進んでやろうという認識が夫婦の間で成立していることがなによりも大切なのである。

 

 

 

相手がどんどんやってくれるから、自分はちょっとさぼろうなどという気持ちを起こすとその「気」というのは瞬時に相手に伝播してしまうことはよくよく承知しておくべきだろう。また、さぼる気持ちまではなくても、相手がやって当然という気持ちも制度崩壊に直結する。結局のところ、この制度を支えているのは相手への思いやりと気遣いなのである。ありがとうの一言で案外人間は許せちゃうものなのである。そうした言葉による気遣いが苦手なパパ諸君はいっそのこと家事に精を出すというもの手である。自分がありがとうを言われる側に回ればいいということだ。

 

 

 

最近、家事育児を五分五分でというフレーズをネットで目にした。このことに強い違和感を覚えてこんなことを書いてみたが、これが例えば「せめて五分五分」とか「最低でも五分五分」と書かれていれば案外納得してしまったかもしれない。単に五分五分と言われたとき、そこにフェアネスを感じなかっただけでなく、そうした考えが蔓延することにちょっと怖い気がした。公平とはみんながおんなじであることではない。しかし五分五分という言葉が公平とイコールで結ばれそうな予感がそこにあった。五分五分であることと、公平であることは断じて同じではない。10:0だって時には公平になりうる。本来フェアとはそういうものではないか。家事育児もお互いにとってフェアと思えるやり方を目指してはどうか。