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健康診断で夫婦喧嘩

 

「健康診断で夫婦喧嘩」

 

 

 

夫婦喧嘩は犬も食わないと言いますが、みなさん夫婦喧嘩してますか?

 

我が家ではわりかし喧嘩は少ないほうだと思うが、それでも年に一度は勃発しているかもしれない。かもしれないというのは、大抵男というのは喧嘩があってもそれが解決してしまえば忘れてしまうからであって、その点過去の遺恨をいつまでも忘れずにいる女性のほうが正確にその回数や内容を記憶していると言えよう。

 

 

 

さて今朝久しぶりに夫婦喧嘩をしたのである。

 

その原因はなにかと言えば健康診断略して健診である。

 

ぼくは健診が嫌いでそのなにが嫌いかと言えばバリウムが一番嫌いである。あのいかにも体に悪そうな金属を飲むことに抵抗があるのは生物としてまっとうな証拠でさえあると思っている。どんなに味付けをしたって体に悪いものを体が美味しいと感じるはずもなく、いつも苦々しい気持ちで飲んでいる。

 

 

 

でもまあ飲むのはまだいい。問題はその後だ。バリウムは体に悪いから下剤を投入して速やかに体から排出しなければいけない。体の調子がどこも悪くないのに下剤を飲んで下痢を起こすなんて気狂い沙汰である。その上出てくるうんこが白いうんこときた。白い恋人はおいしいが、白いうんこはいただけない。そしてなんとか排出に成功したあとも苦闘が待っている。バリウムは通常のうんこに比べて重いので流そうと思ってもかんたんに流れてくれない。聞いた話によれば家庭のトイレは水流が弱いのでさらに流れにくいらしい。だからバリウム検査をしたら外でするのが正解のようだ。外といっても当然野糞をひねることではなくて、ビルの中のトイレを使うということである。

 

 

 

ぼくは以前家のトイレで白いうんこを排出し、全然流れなくって半分泣きながら割り箸を使って細かく割りながら何時間もかけて流した経験がある。割り箸も長く水につけていると毛細管現象で上のほうまで水が上がってくるから恐怖だ。白いうんこの戦いは後々まで語り継がれ最近では中学校の教科書に載っているというではないか。

 

 

 

もうひとつ、これは通常の健診とは関係ないが直腸カメラの悲劇も忘れてはならない。採便(昔は検便って言いましたよね)で血液が見つかったとかで再検査になって、それが直腸カメラだったのである。直腸カメラは胃カメラほど検査そのもので苦しむことはないが、その準備段階で死んだ。二リットルの下剤を飲んでひたすら下痢を繰り返し、腸内を空っぽにするという作業で死んだ。これ、やったことがないひとのために言っておくと、下痢が辛いのではなくて、下剤を飲むのが辛いのである。どう辛いのかといえば、その下剤は少々のとろみと塩分があってどうにもこうにも飲み込むのが辛いのである。

 

 

 

ぼくは直腸カメラを二度やっていて、あの苦しみを二度味わいたくないと思い少しでも楽に飲む方法を考えた。その結果編み出したのが下剤をキンキンに冷やすことである。冷蔵庫でキンキンに冷やすことで舌が鈍くなりその冷たさも相まってかなり飲みやすくなる。どうしても下剤が飲めないという方はお試しあれ。ただし、キンキンに冷えた下剤を二リットルも飲まないといけないため、直腸カメラ検査は夏限定である。冬にやったら本当に死ぬんじゃないかと思う。

 

 

 

以上の理由により健診はかくも体に悪く、健康な体にそれを及ぼすことは病気の原因にさえなりかねないと考えわたくしは固く健診を拒否してきたのでございます。というのが前口上。

 

 

 

妻が健診を受けろとうるさく言う。本人は年に一回しか言っていないなどというだろうが、ここまで健診を忌み嫌っている側からすれば一度だってうるさいに決まっている。話題を出すこと自体が問題なのだ。数日前から健診を受けろという言葉と検査機関や料金についてのメールを送ってきてぼくにプレッシャーを与えてきた。このまま無視を決め込んでもいいのだが、健保組合の安いよというのでどのくらい安いのかちょっくら見てみることにした。すると基本健診二千円とある。なるほど二千円は安い。はてその内容はと見てみるとバリウムによる胃部X線検査がなくて、要は血を抜いておしまいという類のものらしい。なんだこれならいいじゃないか。血を抜くことくらいなんでもない。よしこれにしようこれに決めたとさっそく予約をとったのである。我ながら大進歩である。一生健診を受けないくらいの気持ちだったのだから凄まじいエボリューションと呼んで差し支えない。いやむしろ思想が根底から覆ったレボリューションである。よくやった俺。が昨日のこと。

 

 

 

今朝になってタイミングよく妻が健診受けなよというパワハラ或いはDVを加えてきたが、もう余裕顔で対応だ。もう予約したよ。こちとら余裕しゃくしゃくなのだ。なに予約したの。基本健診。

 

 

 

はあっ〜!?そんなの意味ないじゃん。一日ドックじゃなきゃ意味ないよ。

 

 

 

という暴言がきっかけで喧嘩が始まります。

 

もう黙っていられません。そこまで言われてすんなり下がるほどおちぶれちゃあいねーぜ。というわけで相手と同じトーンで言い返します。まあこれがよくある夫婦喧嘩ドツボのパターンなのですが、時として正面からぶつかることも必要なのです。たぶんね。

 

 

 

散々受けろ受けろというから予約したのに、なんでそういう言い方になるんだ。あんなもの受けたら本当に病気になるから俺は絶対に受けないよ。

 

 

 

自分ひとりの体じゃないじゃん。心配してるから言ってるんでしょ。

 

 

 

見事な定型句であり常套文句であります。予想がつきすぎて何の感慨もありません。

 

 

 

あのねえ、俺は今まで絶対に健診受けないって言ってたんだぜ?それが基本健診だろうがなんだろうが受ける気になったわけじゃない。キミにしてみたらまったく足りないことで不満だろうけど、まずは一歩前進と思って黙ってられないのかね。

 

 

 

とぼくは言ったわけです。これ、反対の立場だったらぼくならそうするからです。黙って認めてあげることは辛いことです。不満をぶつけられずに自分が抱え込むわけなのだからストレスなことです。でも、他人を変えることはできない、これ鉄則です。ましてや北風と太陽で怒鳴れば怒鳴るほど相手は身を固めて持ち場を死守しようとする。だから、太陽になれないのであれば、自分の思い通りにいかないことは自身がペイシェンスするしかないんですね。

 

 

 

でもそれはあんたの意見で私は違うと妻が一蹴したことで、怒鳴り合いは平行線を辿りお互いに言わんでもいいことを罵り合う羽目に陥ったのでございます。いやあ夫婦喧嘩ってほんと他人がみると馬鹿みたいですよね。

 

 

 

それでどうしたのって思うだろうが、出社時間になって時間切れでお互いに気まずい雰囲気のまま散会となった。これもよくあるパターンであ〜あるあると頷く方多しではないかと思う。

 

 

 

この喧嘩、実は最初からわかっていたのだけど、健診を受けるか受けないかが問題というより、「言い方」が気に入らなかったから喧嘩が派手になったのである。まさか、そこ?まさに、そこです。

 

 

 

まことに北風と太陽は多くの示唆を与えてくれる物語である。もし仮に妻がちょっとしなでもつくって、ねえあんたが健診嫌いなのはよく知ってるわ。でもここは家族のためと思って受けれくれたらそんなに嬉しいことはあたしなくってよ、ほらだってあたしこんなにあなたを愛してるじゃない。なんて言ったら男なんて大抵馬鹿なんだから、でへへへなんだなんだそうかそれじゃあしょうがねえなあ、それじゃあひとつ死ぬ気で受けてみるかな。なんて言い出すものである。

 

 

 

ところが現実はそんな感情はすでに微塵もなくそれとは反対の対応をされるわけですから炎上止む得なしとなる。なんだか一方的で自分に都合が良すぎないか?結局悪いのは妻の言い方か?ってことを言うひとがでるだろうから、それについても記しておく。そもそもこれはぼくの主観を書いているのだから一方的で構わないのだがしかし、それじゃあ自分はどうなんだというご指摘があったと前提に考えてみることも必要だろう。

 

 

 

まず第一に、健診は絶対受けないという硬い意志があった。それが基本健診を受ける気までなったのだから、バリウムを使用する検査はその次のステップとして考えたい気持ちでいる。なんのステップじゃと思うひとのために言っておくと、はっきり言えば意地のステップである。興味のないひとからすればまったく無意味と思うことでも、人間合理性のみに生きるに非ずと考えるぼくは心身一体、すなわち気持ちの問題も体と等しく扱うのを是としているのです。

 

 

 

意地を張るとか意固地なんてものはないほうがいいのかもしれないが、正の側面を見ればそれがこだわりや深く物事を知ろうとする探究心として必要だったりするのではないか。そしてそうした性質は表裏一体なので、良い方だけを残して悪い方を捨てようと思ってもそうかんたんにはいかないものではないだろうか。そこに人間としての複雑さや味わいなんてものも生まれたりするわけだから難しいのである。

 

 

 

ただ、ここまで論理的に理解しているのであれば今の意固地はダークサイドとわかっているでしょうという声が聞こえて来そうである。 怒りは憎しみを生み、憎しみはダークサイドへとつながるとマスターヨーダも言っているでしょう? その論理的思考から生み出される結果は最初っから人間ドック入ることでしょう?

 

 

 

健診を受けるという前提ならそうなるんでしょうね。。。

 

やっぱり悪いのはぼくということで満場一致?

 

 

 

およそ二歳から始まり三歳でピークを迎え、その後もずるずると続いていくイヤイヤ期というのがある。これは脳の発達にともない一個人の形成が始まって自己主張の現れの一つであるが、同時に自分という存在の危うさを知る時期にもなる。今まで母親の一部として内包されていた環境から自分という独立した存在になったとき、イマココに自分がいるという事実を認めてほしいと願う気持ちもイヤイヤを通して訴えているのではなかろうか。

 

 

 

なぜ突然こんなことを言うのかといえば、ぼくの意固地もまた自分で自分を分析すれば同じようなものではないかと考えたからです。しなくてもいいことをわざわざすることは、ぼくはここにいますよというサインを送っていたんだと思います。一見どうでもいいこともその意味を深くさぐると思いがけない発見があるものです。そして、どうでもいいと思えるようなことにこそ、実は心のSOSが含まれていると河合先生は言ったとか言わないとか。言ってないか。家庭に居場所がないと感じることがあるのはたぶんぼくだけでないと思うので、勇気をもって書いておきます。しかし同時に居場所は与えられるものではなくて自ら作るものであるとも言っておきたいと思います。男はかくも女々しくなった。河合隼雄先生に言わせれば昔から女々しかったのだけど昔は制度が守っていたということである。大体女々しいという言葉は男にしか使わないのである。弱っちいという表現に女という漢字をあてたのは男の見栄と虚勢のせいだろう。

 

 

 

さて、かくしてぼくが胃部X線検査を受け入れることで健診問題は一件落着の方向へと落ち着くはずだ。だが、今回に如かず、夫婦喧嘩のそのほとんどは言い方ひとつで回避できるということも肝に銘じておき(ここで文字が終わっている)