
シュフと言っても兼業主夫である。しかし専業だろうが兼業だろうが主夫に変わりなく、炊事洗濯家事親父。家事のうちでもっとも労力時間的にウエイトが高いのが炊事即ちごはん作りであるのは言うまでもない。
まず献立に頭を悩ませる。仕事をしながら今夜のおかずをどうしようかと考えるのは非常に憂鬱である。これが大人だけなら今日はめんどくさいから各自外食とか、ごはんと味噌汁があればいいよね的粗食、或いはパスタ一品も可能だろうが、子どもたちの健康維持が前提にあるからそうはいかない。栄養価とバランスを考えて無い知恵を絞ってなんとか毎日を過ごしている。
ぼくなどは一週間同じメニューが続いても全然平気な質だけど、同じ味付けばかりじゃつまらないだろうとレシピサイトを巡回する。例えばほうれん草なら最初おひたししかなかったものが、胡麻和え、ナムル、酢味噌和え、シーチキン和えなどバリエーションが増して行った。子どもは誠に正直なので、気に入ればガツガツ食べるが気に入らないと一口も手を付けない。そういうときは強制的にノルマを課して食わすが、内心ダメージはでかい。
毎日夕方になると気もそぞろになって仕事が手につかなくなり、冷蔵庫をあけて今夜どうするか逡巡し始める。簡単に短時間でできて美味しい料理を今夜は作れるのか。今夜と言ったが実際には夕方から作りはじめて子どもたちのお迎え時間前には完成させる必要がある。ひとたび帰宅してしまえば飯風呂就寝が流れ作業のごとく始まってあっという間に一日が終了だ。この夜の時間の短さ(と感じる感覚)は子どもがいなかった頃には想像できなかった世界である。
夕飯に限らず食事を作ると自ずと主婦のキモチが理解できるようになる。食事を作って一番辛いことはその料理に対してノーリアクションであることだ。それは子どもだけでなく配偶者に対しても、である。むしろ配偶者の態度こそ気になると言っても過言ではないでしょう、ねえシュフのみなさん。
パパ友と話しているとよく地雷を踏むという表現が使われることが多い。つまりこちらにその気がないのに相手を怒らせてしまったという場合である。このケースの問題点は意図せずして踏んでいるので何が原因かわからずに怒りを買うことである。そして大抵その真意は明らかにされないのである。だからパパ友同士でしゃべっていても大変でしたねとねぎらうことはできても具体的な解決或いは回避方法に至らないことがほとんどになる。
ではなぜ地雷が発生してしまうのか。本物の地雷と違って、この精神的地雷は事前に撒かれたものではなく瞬間的に発生するという特徴がある。だから踏まれた本人もそこに地雷があることは認識しておらず、双方図らずして起爆するということを念頭にいれたし。それもそのはずそもそも地雷を踏まれて嬉しいひとなどいないのである。言われた本人は思わず言われた何気ない一言にムッとしてしまう。相手に他意がない分余計に腹が立つ。なぜかと言えばそれだけ自分に対して無関心の証拠として受け止めるからである。
いよいよ実例をもってお話せねばなるまい。というのも結局のところ地雷を起爆させないためには相手の理解が不可欠であり、理解へのもっとも効果的方法は炊事洗濯家事育児を自ら経験するに限るからである。
それも一回だけではだめである。2,3回ではまったく足りない。多くのシュフがそうであるように毎日夕食づくりをある一定期間やってみるとよい。僕即ち私いわゆる俺はそうしてみてわかったのである。夕飯をつくる。ただ無言で食べる妻にイラッとする。ああこれかと体験して実感する。生姜(だったっけ?)入れなかったの、という何の他意のない事実確認が非難にしか聞こえない。ああこれかと理解する。これです。わかりましたかシュフでない皆さん。
シュフは配偶者の「美味しいね」のただ一言で全て報われるといっても過言ではない。うそでもいいからたった一言そう言えば丸く収まるのである。地雷なんか発生しないのである。ところがあなたはどうだろうか。そんなこと照れくさくて言えやしないと言うか。しかし言え。たとえ不味くても言え。四の五の言わずに言え。
あなたはたった一言そう言えないばかりでなく、いらぬ指摘をついしてしまう。事実なんてどうでもいいのである。もう一度言おう。ジジツなんていらないのだ!あなたがどんな言い訳をして、それがどんなに理にかなった理由であろうと、「美味しいね」以外に言うべき言葉はない。なるほどこれが自分でシュフをして体得した感情である。兼業であろうが専業であろうがシュフにとって毎日の料理は相当な負担なのである。それでもだれかが作らなければいけない。理詰めで考える男性はそれがシュフの努めであり当然だとしか考えられないかもしれない。ただ、頭の中では当然だと思っていたって、ねぎらいの一言「美味しいね」くらいは言えるでしょう?一秒あれば言えるんだから。料理は一時間以上かかっているんですよ。
なるほどこれがシュフのキモチである。地雷発生のプロセスも経験によって理解できた。そして地雷が発生したときの言いようのない腹立ちを自ら経験することによって相手への理解がまた一歩深まったといえよう。なにしろ男女の間には深くて広い川がある。此岸から眺めて彼岸を完全に知ることなど不可能だ。しかしこのような経験を通してお互いが歩み寄れば川幅も少しは狭くなろう。