
【兄弟平等は難しい】
兄弟平等は難しい。まずなにが難しいのかといえば、そもそも彼らが平等を望んでいないことにある。兄も妹も圧倒的優遇が望みだ。したがって、彼らにとって平等というのは不公平と同義なのである。
であるからにして、お菓子の個数やよしよしの回数やぎゅーぎゅーちゅーちゅーの時間に差異が生じた場合、兄弟は烈火のごとく嫉妬心に燃え、それを怒りに還元して親を世紀の大悪党と決めつけ、不足分を求める脅迫運動を展開する。
例えばである。兄が帰宅した際に妹がすでにお菓子を食べていたことが発覚したとする。大体3歳の妹は黙っていることができない。いの一番開口一番口外する。それがどんな結果を引き起こすのかわかっていないのである。すると兄はただちにそのお菓子を自分に出すように要求する。もちろんその要求には大声や手足の激しい運動や涙やよだれが伴う。
「だってキミはさっきお父さんと一緒に外でアイスを食べたじゃない」と言っても通じない。自分が余分に良い思いをしたことはカウント外だからである。あくまでも妹がしたことと同じことをしないと気が済まないわけだ。こうした態度はどちらにもあるが、妹よりも兄に多く見られる傾向がある。
日頃赤ちゃん可愛がりされる妹を兄はうらめしく感じている。だから余計妹だけが得をしたことが許せないのである。だからといって、小学1年生に3歳と同じ態度で接しろというのは全く無理である。その年齢に応じた接し方というのが自然にあって、たとえ今は本人の気持ちが追いつかないとしても親がここで赤ちゃん可愛がりをするわけにはいかない。だから気持ちのわだかまりは時間の流れとともに自ら受け入れていくしかないのである。
これは兄をまるきり甘えさせないというのとは違う。むしろぼくなどは甘えさせすぎているくらいである。ただそれが赤ちゃん的ではないというだけである。幼少期に十分甘えた経験があることは重要で、これを安全地帯の理論とかなんとか言う。外へ踏み出す勇気が持てるのはいつでも安全地帯に帰ってこられるという安心感があるためである、というある心理学者が提唱した説だった。名前は失念したが内容はなるほどと思ってよく覚えている。
兄弟平等が難しいのは、子どもたちの感覚の違いだけでなく、親であるぼくが平等とは何かを日々模索しているせいでもある。平等とは何か。数量における平等は容易いが、そんなものは平等のうちのごくわずかな領域をしめているにすぎない。平等とは何か。目下のところこれぞという答えはない。ただ一つ言えることはぼくは二人の子が可愛くってしょうがないことであり、だからこそときに厳しく、ときに毅然とした態度で妹の要求をきっぱり拒否できないでいる姿を兄にあまり見られないようにするよりほかはない。はいこの日本語理解できたひと!