
「お父さん、起きて」
隣で寝ていた息子がぼくの肩をゆさぶる。寝ぼけまなこでううんと答える。
「もう行くんでしょ」
絶対違うと思った。目覚まし代わりに置いているスマホも鳴らないし、カーテン越しの光もない。まだだよと言ってぼくは眠りに落ちた。
「お父さん、起きて」
息子が肩をとんとん叩くので気がついた。
「起きないの」
「まだだよ」
そういってうつらうつらして再び意識が遠くなった。
目覚まし代わりのスマホが音を立てている。今度こそ起床時間であり、四時半である。
「ほら、起きる時間だよ」
ぼくはそういって息子をゆすった。あれほど二時とか三時に起きていたのに肝心の起床時間に眠りに落ちてしまうのは子どもあるあるである。それでもいつも学校へ行くのと違ってその目覚めはよく、文字通り飛び起きた。

「お父さん楽しみだなあ。おれ楽しみだなあ」
すでに表は白んでいて遠くのビルの向こうに太陽がスタンバイしている。ぼくはそそくさと顔を洗って着替えをすまし、冷凍庫から小分けにしたご飯を二つ取り出すと電子レンジに放り込んだ。これでおにぎりを握ってそれが朝食になる。具に味噌を入れて塩で握ったのを息子は飛びつくようにして食べだした。夏の朝は早い。太陽がビルを超えて顔を出すと光線が一直線に部屋へ差し込んでくる。ぼくは真東を向いた窓のカーテンを閉めた。
始発のホームにひとが多い。以前のように酔っ払ったひとは少なく、仕事へ行くような姿が目出つ。始発だからだれもいないと思ったら大間違いである。太陽はすでに高く朝という感じはもうない。北千住で常磐線の各駅停車に乗り換えて金町で降り、すでに待機していたバスに乗り込めばもう心は水元公園だ。もっとも息子は昨日の夜から心は水元公園だ。

気持ちが早るせいか、歩く速度も速くなる。息子などそのままスキップしてしまいそうである。公園の手前で腕ならしにニイニイゼミを捕獲して幸先の良さを実感する。ニイニイゼミは息子の指を離れて風のように飛んでいった。
「お父さん楽しいね。最高だね」
息子は今日の虫捕りを心から楽しみにしていたのだ。数日前に晴れたら行こうねと伝えてあって、それ以来この日を心待ちにしていたのである。
「セミとかバッタは後回し。まずはカブトムシ狙いで行こう」
ぼくら親子は飛び交うトンボやそこら中で鳴いているセミに目もくれずに森を目指した。去年この森で大量のカブトムシを捕まえたのである。今年も二匹目のドジョウを狙う算段だ。ポイントへ付いてみるとカナブンやハナムグリが樹液に顔を突っ込んでいて、そのまわりをタテハの仲間がひらひらと飛んでいる。しかしカブトムシの姿はない。ビーンという羽音をたててキイロスズメバチがやってきた。
「ほら、スズメバチが来たから下がんな」
すると息子は慌てることなく距離を置く。成長したなあと思う。さらに低いブーンという羽音を立てて巨大なスズメバチもやってきて飛び去った。オオスズメバチだ。飛んでいる姿を見てもものすごく大きい。
「オオスズメバチだよ」
と教えると息子はその行方を目で追っていた。辺り一帯の樹液が出ているクヌギを見て回ったが結局カブトムシは一匹も見つからなかった。先客にすっかり取られてしまったようである。息子はカナブンやハナムグリを捕まえて喜んでいたが、ぼくの気が収まらない。親の沽券に関わるではないか。

それでポイントを移動してクヌギの木をなめるようにして一本一本丹念に調べた。すると頭上の枝がまたになって別れているところにカブトムシのメスを一匹発見した。
「いた!カブトムシ!メスだけど」
「やった!」
ぼくと息子の間でメスは持って帰らないというローカルルールを決めていたため、しばらく眺めてから森へかえした。
「今日はもうカブトムシは終わりだな。違う虫捕まえよう」
そう切り替えてからパラダイスだった。まずぼくが緑のナナフシを捕まえた。すると息子も負けじと茶色のナナフシを見つけた。去年はぼくにおんぶにだっこだったのに自分で昆虫を発見できるようになったんだなあ。これが一年という月日かあ。それからカマキリの幼体を捕まえて、チョウトンボやシオカラトンボを網でとって、バッタだのハムシだのヨツボシケシキスイだの色々捕まえては逃しを繰り返した。

太陽の強い日差しをものとせず、息子は懸命に虫取り網をふるって走りまわる。
「ああ楽しかったなあ。楽しかったなあ。最高だったね」そういって今日捕まえた昆虫のリストを作り(そのために紙切れとボールペンを持参していた)、繰り返し繰り返し読み上げていた。お持ち帰りした昆虫は一匹もいなかったけど、息子の心の中にはたっぷりと昆虫の思い出が詰まったようだ。ぼくは早起きして連れてきてよかったなあと思った。また行こうな。
