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選択権を与えるべきか、否か

選択権を与えるべきか、否か。これはいつも難しい問題であるとぼくは考えている。子どもに対してである。

 

 

 

先日こんなことがあった。

 

ぼくは事の起こりをかいつまんで説明することが苦手なので、それぞれ想像力を拡大して読んでほしいという前置きのもとに始めると、まずもう一度昆虫採集へ行こうという話に息子となった。しかし今度は友達を連れていきたいという。それなら向こうの親御さんに聞いてみようとなって、するとその話を聞きつけた向こうの妹が自分も連れて行けと言っているという。小学一年生にとって四歳の子がいることははっきりいって足手まといなので、できることなら断りたいのであるが、事態はすでに収拾のつかない状態になっているようで、それなら我が家も家族ぐるみで行かねばなるまいとなってしまった。

 

 

 

この時点で息子は予想通りブーたれていたが、結局公園につけば妹組と別行動になること必至と諭して納得させた。ところが事態はまたまた一変して向こうの父親の体調が芳しくないため、遠出はやっぱりやめたいと言ってきた。近所の公園で遊ぶ程度なら構わないが、昆虫採集の遠征には行けないというのだ。

 

 

ここで二者択一の問題が成立する。

 

(1)  友達をとって近くの公園で遊ぶ。

 

(2)  ぼくと二人だけで昆虫採集へ行く。

 

 

 

残念ながら親友を「オレ自慢のフィールドへ連れて行く」という選択肢は今回はないのである。友人をとるか、昆虫をとるか選ばなければならない。このときあなたが親ならどうしますか、てことなんです。

 

 

 

子どもと違って、大人であるぼくら親は長い目でみることが可能である。しかし同時に長い目のスパンがどの程度長くて、どの程度もっともらしい真実味を抱けるかは正直いって不明瞭である。そう考えると、刹那に生きる少年に選択権を預けるのと対して違わないのではないかという気になってくる。

 

 

 

つまり、ぼくらは友人関係を大切にしたほうがいいのではないかという考えが自動的に浮上してしまう。詳しくは知らないが、一番仲がいい友達と息子自身が言っているではないか。だったらその友達と遊ぶことを選んではどうなのかという人間ファースト的思想が無意識に優先してしまうのだ。

 

 

だけど、それは果たして本当か。本当に昆虫よりも特定の人物との遊びのほうが重要なのかってことが大人にはわからないにも関わらず、大人は友達を優先すべしと決めつけていないだろうか、てことなんです。人間関係にのみひとの幸不幸を求めているのが現代人の典型と養老先生も言っているではないか。本来は花鳥風月つまり自然と社会を半々にもっていて、それぞれに幸不幸を持つのが当たり前なのです。なのに、本当に気をつけなければ、ぼくら大人は頭から自然を取り上げた格好で子どもと接してしまう危険性をはらんでいると、この取捨選択が勃発したときにぼくの脳裏をかすめたのである。

 

 

 

ぼくは今回の一件は子どもに選択権を預けるべしと判断した。昆虫をとるか、友人をとるか味付けなしで子どもに判断させようと思った。その結果息子は昆虫(自然)を選択したのである。ならばそれでよし、である。

 

 

午前四時に起きて出発した。薄暗い時間に現地に到着できれば文句はないが、電車をのりついで一時間はかかってしまう。公園についた頃には真昼のようにまぶしい日差しが降り注ぐ。カブトムシはどこにもいない。クヌギの幹から樹液が出ていてあたりは芳しい香りに包まれていてもいるのは数匹のカナブンとモンスズメバチ、それからタテハの仲間の蝶がひらひら舞っているだけだ。今回も坊主か。こうなってくると諦めきれないのはむしろぼくのほうで、三回ポイントに戻って虱潰しに探し回り、棘だらけの野ばらの茂る藪をかき分けて森の奥にそびえるクヌギを目指す。ここにもモンスズメバチがブンブン飛んでいる。しかしぼくはどうしても木の反対側がみたい。藪をもう一分けしてハチに注意しながら歩を進める。いた。カブトムシのオスだ。この瞬間ドーパミンとアドレナリンがどばっと放出されるのか。気分が一気に高揚して一瞬にしてカブトムシを捕まえていた。カブトムシ!やった!ぼくの声に息子も興奮した。え!カブトムシ!どこ!捕まえた!やった!

 

 

 

言うまでもなく、このときぼくら親子は幸せだった。お金では変えない幸福感を味わっていた。息子はよくドラえもんの道具の力でクワガタを大量発生させられたらいいなあと言っているが、それはお店で昆虫を買うのと同じである。このとき感じた感動は決して得られないものだよと言うのだが、まだちょっとピンとこないようだ。

 

 

 

とにもかくにも今回の二者択一で息子が自然を選択したのは息子にとっての正解だった。それはカブトムシを捕獲できたから言うのではなく、そこへ至るまでの冒険中の息子の顔を見ていればわかる。むろん、不正解のときもあろう。こんなことなら友達と遊べばよかったなということだってあるはずだ。しかしそれもまた経験である。なんでもかんでも子どもに選択権を渡すことができるわけではないが、これから起こる事象を即断せず注意深くしかしわりと瞬時に検討していきたいと思う。