
週末に雨が続いて二週間延期になった。
その都度息子は落胆してみせたが、ずいぶん我慢できるようになった。今という刹那を生きてきた息子も楽しみを先送りにできるようになってきた。成長したなあと胸のうちで密かに感動する。
八月の中旬から二週間ずれればそれはもう八月下旬である。クワガタやカブトムシをねらった昆虫採集に行くには時期的に遅い。それでもぼくらは出発をする。昆虫が捕れるにこしたことはないが、それよりも昆虫採集に出かけるということのほうがよほど重要だからである。
日曜日の天気予報は曇り。息子は太陽の子で、スーパー晴れ男だからもう晴れたも同然だ。今日は早く寝るよといって八時にふとんに入る。息子はすぐに寝息をたてていたが、ぼくが眠れない。久しぶりの昆虫採集に興奮しているのはぼくなのか。
三時半起床。
誰も彼もが寝ていると思っていた息子は夜の街の賑わいに驚いている。飲み屋のおねえさんが客をタクシーに押し込んでいる。駅のホームへ上がれば始発を待つひとひとひと。ようやくやってきた電車は座席がほとんど埋まった。窓の外が明るくなってきた。薄曇りの夜明け。
電車を二度乗り換えてついにぼくらはやってきた。雲を透かした光が柔らかく眼前の緑の山を照らす。よし行こう、行こう行こう。少年は目を輝かし、足取りは自然と速くなる。ところが去年コクワをたくさん捕まえたポイントがからっきしの音沙汰なし。幹を蹴飛ばせばバラバラと落ちてきたのに今日はなんにも落ちてこない。まあいいさ。この先ずっと魅惑の森が続いているんだ。どんどん奥へ行こうよ。

森の中はいい匂いだ。樹木や草木の草いきれに樹液の発酵した甘美な香りが混ざり合って得も言われぬ心地よさ。いい匂いだねえ。そういってぼくらは深呼吸を繰り返した。樹液が流れ出て、黒く染み付いたクヌギやコナラの幹が放つ芳香はちょいとした高級ワインよりもずっと複雑で官能的である。ぼくはそんな木に顔を寄せてむはーむはーと空気を吸い込んだ。樹皮の間から樹液が溢れ出し、白く泡立って湧き出している。
ところが、こんなに豪華なパーティが始まっているというのに招待客が全然いない。ぼくらが探し求めるクワガタやカブトムシがいなければ、カナブン一匹いない。ぼくらは草を分け、蜘蛛の巣を断ち切って藪の中へ突撃を繰り返す。樹液だけは溢れている。だれもいない。最近関東地方で勢力を拡大しているアカボシゴマダラがやってきて、白く泡立つ樹液にストローのような口を突っ込んで勢いよく吸い出した。ちっ、外来種が。ぼくは心のなかで毒づいた。ブーンと低い羽音が近づいてくる。スズメバチだ。オオスズメバチ、キイロスズメバチ、モンスズメバチ。スズメバチだけはたくさんいる。クワガタ捕りはスズメバチもセットである。だからぼくは息子にスズメバチとの距離のとり方を教えた。ただ闇雲に嫌うのではなく、うまく距離をとって付き合うのである。
途中クヌギのうろにオオスズメバチの大きな巣があった。まったく見事な巣である。ぼくらはそのわきを足早に通り過ぎた。スズメバチ危険の看板がたっていた。山の管理者もいたずらにスズメバチの巣を撤去したりしない。それでいいのだ。スズメバチも生態系の一部であり、彼らが多くの虫を捕食するおかげでバランスがとれているのである。実際スズメバチは非常に多くの虫を狩る。
山を半分ほど来て坊主だった。さすがにぼくらの意気も下がる。耳元を無数の蚊が飛び回って煩わしい。イカリジンが効いていてうかつに近づけないようだが、奴らはその間隙をついて血を吸っていく。かゆい。息子の頭にとまった蚊をたたく。人家ではみないヤブ蚊だった。
無数にある樹木を一本一本丹念に探してようやく待望のクワガタを発見した。木の根本の草を分けたところに樹液を吸っているノコギリクワガタのメスがいた。クワガタいた!ぼくが叫ぶ。え、クワガタ!?ほら。息子の手のひらにのせてやる。そいつは爪の先が少し欠損していたし、なによりメスなのでしばらく観察して写真だけ撮って戻してやった。メスは持って帰らない方針だから。だけどこの発見でぼくらは少し明るくなった。暗闇に希望の光がさした、そんな感じがした。
少し行った先で樹液を貪り食うクロカナブンを見つけた。ぼくにとっては懐かしい、息子にとっては初めての種類である。クロカナブンはカナブンの親分みたいなやつで力もあるしスタミナもある。だから子供の頃よく糸をくくりつけてお散歩して遊んだものである。逆に体力がないのはアオカナブンで、まあまあなのが普通のカナブンである。クロカナブンは真っ黒なボディが精悍で見るからに強そうでもある。もって帰ったら遊び方教えてあげるよとぼくが言って、息子はうれしそうに虫かごにおさめた。ずっと空っぽだった虫かごの最初の入居者だった。
さすがにぼくは焦った。いくら参加することが大切ですって言ったって坊主じゃ父親の沽券に関わる。カナブンなどカウント外だ。あくまでもカブトムシもしくはクワガタでなければならない。個人的にはクワガタ派であるからぜひともクワガタを捕獲したい。息子はカブト派だそうだ。一番強いからというまったく子供らしい発想である。子ども、とくに男の子にとって最強はキラーワードである。なんでも「だって最強だよ」と言えば「え、スゲエ」で解決だ。

しかし探せども探せどもクの字もカの字も出てこない。それどころか、全体的に昆虫が少ない。なにしろもう八月下旬なのだ。七月下旬とはわけが違う。頭上でツクツクボウシがけたたましく鳴いている。ツクツクボウシが鳴けばもう秋はすぐそこまで来ている証拠だ。道が二手にわかれている。というより、一本は主通路に接続する細い脇道だった。こっちへ行こう。ぼくは息子を脇道へと誘った。一瞬息子が不安そうな顔をしたが、大丈夫だよと言って先に歩き始めた。ぼくの目の前に怪しいクヌギが立っていた。匂う。芳しい匂いが漂ってるぞ。いた!カブトムシ!ぼくは声にだした瞬間手を伸ばしていた。樹皮から引き剥がすときに感じる爪の力!生命の躍動を手中に収めたときの感動!これだ!これが昆虫採集の醍醐味だ!
そして立て続けに同じ木でもう一匹のカブトムシを発見。いきなり二匹の捕獲成功である。先ほどまで意気消沈していた親子に力が蘇る。二人に笑顔が戻って喜びと興奮を分かち合った。元気になったねえ。最高の気分だねえ。お父さんがさ、カブトムシって言って、オレがえ、カブトムシって言ってそしたらもう一匹カブトムシってなってうおーなんじゃこりゃーすげーって言っちゃった。て息子が言った。
その後、ぼくらは別の木でもう一匹のカブトムシを捕獲した。さらにもう一匹見つけたが角が欠損していたのでその個体は持って帰らないことにした。傷ついたカブトムシは飼育環境では長生きしないからだ。帰り道にカブトムシのメスを見つけて観察と写真撮影だけをした。結局クワガタは一匹も見つからず全部カブトムシばかりになったが、カブト派の息子は大満足の大冒険となった。午前十一時。ぼくらは出発地点の山の入り口に戻っていた。ここからまた一時間半電車に揺られて自宅へ帰る。息子は虫かごの網から突き出すカブトムシの爪を大事そうになでながらいつの間にか眠っていた。三時半に起きてはじまった今日の探検がそっと幕を閉じたのであった。ハッピーエンド。
