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秋の大癇癪祭

 

秋の大癇癪祭

 

 

 

その昔広末涼子が「マジで恋する5秒前」という歌を歌っていたが、こちらはマジでブチ切れ5秒前である。

 

 

 

以前にも三歳児である娘のわがままに辟易したことを書いたが、その傍若無人ぶりは収まるどころか指数関数的に増大している。

 

 

 

例えば朝起こしにいくと、ふとんがぐちゃぐちゃだからきれいに直せと叫ぶ。そんなことはいいから早く起きなさいといっても通じるわけがない。きれいにしたらふとんに潜り込むに決まっているのでやらないで部屋を出るとぼくのところまで追いかけてきて、ふとんを直せと泣きわめく。ここまで起きてきたのだからそのまま起きればいいじゃないかというのは大人の考えのようで、ぼくの腕を無理矢理ひっぱっていってふとんを直させる。そこでようやく気が済んだのか起きてくるのである。これが毎朝の儀式。

 

 

 

例えば。保育園から戻るとまず着替えを要求する。なんで着替えるのかわからんが勝手に着替えなよと言ってもそうは問屋がおろさない。ぼくはぼくで子どもたちの夕飯の準備があったりして忙しいわけであるが、お腹が空いたといいながらもまずは自分の要求に応えることが先決らしい。毎夕の儀式。

 

 

 

基本的にやめなさいと言ったことを徹底的にやる姿勢を崩さない。行っちゃいけないよと言えば行くし、やっちゃいけないよと言えばやる。だからこちらもカチンコチンブチンである。

 

 

 

娘は走ることが大好きだ。実際三歳児にしては走るのが速いし持久力もある。しかしそれは三歳児にしてはということで、当然六歳の兄のほうが速いに決まっている。娘は抜かれるのが大嫌いである。したがって兄に追い越されると立ち止まってやり直しを要求し、手足の激しい運動を交えた大泣きが始まるのだった。

 

 

 

だからぼくは息子に妹を追い抜くんじゃない。三歳児に勝って楽しいか。というのであるが、所詮六歳児である。怒った時はわかったと言うが、その次妹が走り出した瞬間兄も走り出している始末。妹は急停止どころか、道をはるか遡ってリスタートを要求し、ぼくは五秒待たずにマジでブチ切れだ。これなぜか急いでいるときほどやるのである。おめーらえーかげんにせーよ。

 

 

 

子どもたちは駄菓子が大好きだ。人工甘味料に毒されてDAだ。Dagashi Addictionである。娘はなかでもグミがお好みである。あんな匂い付き消しゴムみたいなのよく食べるなと思っていつも見ているが、当の本人はうれしそうに頬張っている。あんまり言うことをきかないときはグミあげないよ、グミ捨てちゃうよなどということがある。言わば脅しをいれるわけである。これで言うことを聞くのは最初だけで、本当は捨てないとわかるとすぐに通じなくなる。なめられたものである。その昔ナメんなよという猫が流行ったが、ぼくも子どもにナメられるわけにはいかない。

 

 

 

それで本当にゴミ箱にグミをザラザラザラーと捨てたことがある。有言実行だ。お父さんは捨てると言ったら本当に捨てる人なんだよという実演付きパフォーマンスである。当然娘は大泣きをしてゴミ箱から拾って食べると叫んだがそうはイカの塩辛だ。悪行を反省し品行方正に生きよと諭したがほんの三分もしないうちにいつもの娘に戻っていた。ただしお父さんは本当に捨てる男という印象は深く刻まれたようで、そのセリフの効力は今しばらくあるようである。

 

 

 

最近思うことがある。苛立ちの原因は二つあって、一つは際限のない要求であり、もう一つはこちらの要望に応じない非協力性である。親はなにかと子に要求しがちだが、こちらが要求しなければ苛立ちも半分になるのではあるまいか。煩悩を捨てて達観せよということか。

 

 

 

保育園のお迎えの時間が迫るとうつうつとした気分になるのは会社が近づくと急に具合が悪くなるうつ病患者と症状が似ている。今日はパスとか、パスは三回までができないのが子育てである。辛い分だけ思い出深くなると思って今が踏ん張り時。親の心子知らず。今日も娘は全開です。