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誕生日プレゼント:欲しいものをあげるのか、あげたいものをあげるのか。

 

誕生日プレゼント:欲しいものをあげるのか、あげたいものをあげるのか。

 

 

 

2月で息子が7歳になる。6歳の誕生日を終えた瞬間から待ちわびていた誕生日がいよいよやってくる。嘘ではない。オレ大好き、オレかまってちゃん、オレ甘えん坊の彼が妹の誕生日で泣いた話は以前書いた。ことあるごとに誕生日の話を持ち出す息子にとって11日と近づいてくる誕生日は他人が想像する以上に楽しみなのである。信じられないほどに。

 

 

 

さて、誕生日が近づいてくれば当然誕生日プレゼントである。一年前から思案していたようであるが、この一年はほとんどブレることなく恐竜のおもちゃが欲しいと言っている。もうすでに何体か持っているが、男子はコレクター気質があるので今度はプテラノドンが欲しいそうである。

 

 

 

プテラノドンかあ。いや、そういう問題ではない。恐竜のおもちゃを与えることに抵抗があるのである。ぼくとしては彼に双眼鏡をプレゼントしてやりたいのである。森へ行って野鳥を見るのが昆虫のいない冬の楽しみだ。息子もどんどん野鳥の名前を覚えて楽しんでいる。双眼鏡があればもっと大きくはっきり見ることができる。双眼鏡はきっと彼の世界を広げる役に立つだろう。それに双眼鏡は何十年も使えるものだ。ジョージ・マクフライのような使い方は困るが彼が大人になってからも役に立つだろう。

 

 

 

翻って恐竜のおもちゃは一過性である。一過性のおもちゃがいけないわけではないが、そろそろ誕生日プレゼントというものが刹那的煩悩を満たすものであってはいけない年頃ではないかと思う次第である。

 

 

 

と考えるぼくは少数はであろう。パパ友に聞いてもたいていはゲームソフトだったりおもちゃのたぐいであって、それはつまり子どもが欲しがるものを与えているわけである。それに、ぼくだって子どもの頃は超合金ロボットだったり超合金ロボットだったり超合金ロボットだったりしておもちゃを欲しがったではないか。なのに大人になるとまるで子ども心がわからないのはずるいのではないか。

 

 

 

という思い出が頭をかすったが、やはりそれは違う。おもちゃを与えるのは親が楽だからである。おもちゃを与えておけば子どもは勝手に遊んでくれる。少なくとも恐竜ごっこをしている間はかまってやる必要がない。親はラクしたい。子どもはおもちゃが欲しい。それでWin-Winは誤解である。それは短絡的発想である。怠惰である。

 

 

 

ぼくはことあるごとに何度も息子に聞いている。恐竜と双眼鏡どっちが欲しいか。どっちもはないよ。あとでやっぱりもないよ。それで一度だけ双眼鏡と答えたことがあったが、今のところ圧倒的に恐竜が優勢だ。そうだとも。もし息子がすんなりと双眼鏡と答えていたらこんなことは悩まないのである。クリスマスプレゼントはサンタ苦労するがリクエストに答えてトリケラトプスをプレゼントしているのである。2ヶ月も空けないうちにまた恐竜なのか。いいのかそれで。いいのか。いいのか。いいのか。いいのか。

 

 

 

いや、だめである。それはまったく正しい気がしない。ぼくの直感がNOと言っている。ぼくが与えたいものをあげる。それを親の、ぼくのエゴだと言うか。のび太のお父さんは伝記全集みたいなものをのび太にあげてのび太の不好を買う。のび太は我が息子と同じく「おもちゃ」が欲しかったのである。役に立つものをと思う気持ちはのび太のパパもぼくも同じである。

 

 

 

もしこのまま99%(もしかしたら100%)プテラノドンのつもりでいる息子に双眼鏡をプレゼントしたらやはりぼくもがっかりされるだろうか。一年の一度、せっかくの誕生日でさえ自分の願いを聞いてくれないとぼくをなじるだろうか。泣いてプテラノドンが欲しいと騒ぐだろうか。

 

 

 

ええいままよ、だ。泣きたければ泣くがいいさ。やはりぼくは刹那的煩悩を満たすだけのおもちゃはあげたくないのだ。ぼくがあげたいものをあげるのだ。でもいいなあ誕生日プレゼントがもらえて。ぼくなんか子供の頃もらったことなんてなかったよ。