
「あ、お父さん生まれた…」
娘が指差した方を見るとカマキリの子どもたちが房のように垂れ下がっていた。
ぼくは慌てて一輪挿しごとテーブルへ移動した。たった今誕生したばかりのカマキリたちはもうそれぞれが移動を始めていて、それぞれがちゃんとカマキリになっている。娘はポトリポトリと落ちていくカマキリたちを興味深そうにじっと見つめている。テーブルに落ちたこどもたちはさっそく広い世界へと旅立ちはじめた。ぼくはカメラのシャッターを切るのに夢中で、娘はせっせと落ちたカマキリを庭へ運び出していた。これを親子の共同作業という。

昨年の秋に集めてきたカマキリの卵が春になってつぎつぎと孵化をしている。しかし生まれてくるのはオオカマキリの卵ばかりである。ハラビロカマキリのほうはひとつも生まれてこないから、きっと時期が違うのだろう。カマキリの卵は卵嚢とか卵鞘と呼ばれる硬い泡に包まれていて、内部は幾層にも空気の層があってこれが完璧な断熱を実現している。だから居心地がいいのはカマキリばかりではなく、この卵を狙った昆虫の数も多い。

カマキリタマゴカツオブシムシという舌を噛みそうな名前の甲虫もインベーダーのひとつである。卵嚢にキリで空けたような丸い穴が空いて、黒い甲虫が出てきたら残念ながらその卵は全滅である。うちに持ち帰った卵のいくつかがカマキリタマゴカツオブシムシにやられていて燃えるゴミに出して処分した。にっくき敵は不動明王の業火でもって焼き尽くすのだ。息子はカマキリタマゴカツオブシムシが出てくると悔しがって地団駄を踏んだが、こうして卵を持ち帰ったからこそカマキリタマゴカツオブシムシの存在を知り、自然の厳しさを学んだのである。まさにフィールドワークだ。ぼくも子供の頃カマキリの卵はよく持って帰ったが、カマキリタマゴカツオブシムシの存在は知らなかった。ぼくが四十年近く知らなかったことをわずか七歳にして獲得したのだからたいしたものである。なにが大したものなのかといえば、興味を持つということと、フィールドワークの大切さのことである。

カマキリは生まれたからといってみんなカマキリとして巣立ちできるわけではない。中には卵嚢から出てくる途中で死んでしまうものも少なくない。正確に数えたわけではないが、一度の孵化で5〜10匹はカマキリの形になれずに死んでいるように見える。また、卵から無事に脱出できたのはいいが、そのまま立ち上がれずに死んでしまう個体も数匹いる。いよいよ旅立っていったカマキリたちを待ち受けるのは、いずれカマキリの餌となる虫たちである。形こそカマキリだが、貧弱なこどもたちは恰好のターゲットとなり、おそらく成虫になれるのは数匹というところだろう。ぼくらはついそれを総数の問題として扱いがちになるが、同時に個人個人の問題でもあるということを忘れてはいけない。キミが死ぬかぼくが死ぬかあるいは両方死ぬかつまりはそういうことなのだ。

昆虫は美しいが全ての昆虫がみな美しいわけではない。例えば成虫は美しくても幼虫は気持ち悪い昆虫はザラにいる。そこへいくとカマキリの美しさは一貫していて、それは即ち神々しいとも言える。
