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ヒルクライムの効能

 

自転車で坂道をひたすら登り続ける。それがヒルクライムである。もっとも日本の場合は丘なんてほとんどなくて山だからマウンテンクライムである。どうして好き好んで登るんだろうなと自分でも思う。死ぬほど辛い思いをしているのにまた山を登ってしまう。そこに山があるからだというのは正しい回答とは思えない。それはなにか他に目的があって登っているからである。

 

 

 

まず休日なのに早起きしないといけないのが辛い。これを人呼んでお布団峠という。いきなりの難関だがここを越えないと自転車に乗ることさえできない。辛い辛いと葛藤したのちになんとか布団から這いずり出る。それからウエアに着替えるのも地味に面倒くさい。アームカバーやらレッグカバーやら小物が多いからだ。

 

 

 

さて、ようやく山の入り口までやってくる。道は緩やかだがすでに登り基調になっておりギアを次々と軽いほうへと変えていく。そして本格的な上りが始まる。登りだして一番にやめたいなあと思う。ここでUターンして帰ったら楽だろうなあと考える。やめたいやめたい帰りたい帰りたい。呼吸が極端に早くなって息をするのも苦しい。このやめたい帰りたいという気持ちをだましだまし過ごしているうちにようやく呼吸が落ち着いてくる。心拍数が高いところまで上がるとゆっくりと呼吸できるようになるのである。しかし呼吸が楽になったからといって坂道が楽に登れるようになったわけではない。足にかかる負担は斜面に応じてずっと大きいままである。ただ呼吸が楽になった頃、やめればよかった帰ればよかったという気持ちはずっと後ろのほうへと下がっている。

 

 

 

いつものコースはおよそ20キロ登る。途中いやらしい下りがふたつみっつある。足休めにはなるが下った分もう一度登り直さないといけないから正直いってまったく嬉しくない。ちなみに行きで下った道は帰りは登りになる。登頂してすっかり疲れ切った体にとって短い上りでもかなり辛いものである。

 

 

 

帰りたいという気持ちはなくなっているが、どんどん辛くて苦しくなっていく。体もあちこちが痛くなってくる。自転車は意外にも全身スポーツだ。それで辛さを紛らわすためにいろんなことを考える。最近みた映画を思い出す。美女が29歳でとしとらなくなって100歳過ぎちゃったという映画を観た。男のファンタジーを描いたような映画だったが意外に妻にも好評だった。もし主人公が美人じゃなかったらどうなっちゃうんだろうな。ナンセンスな映画にナンセンスなつっこみを入れてみる。美女ありきの映画なのだ。ドラゴンボールで孫悟空が宇宙空間では戦えるのに海中で息が苦しいとか言っているのおかしすぎるだろというツッコミと同じくらい意味のないことである。最近子供たちとみたのである。息がもたないってアンタ、今までさんざん宇宙で宇宙を壊すくらいの戦闘繰り広げてたじゃあないか!これ作ったやつ出てこい。鳥山明でないのは確かである。

 

 

 

と、そんなどうでもいいことを考えている。その間にもぼくの足はギリギリとペダルを漕ぎ続ける。一種の現実逃避である。しかしこうしたくだらないことを考え続けるにも限界がある。目の前の道はくねくねと折れ曲がりながらどこまでも続いている。見上げれば白いガードレールがところどころ見えている。見下ろせば今まで自分が登ってきた道が小さく見えている。

 

 

 

ぼくははたと気がついた。ゴール目指してただひたすら目をつぶって走ってはいけないのではないかと。目をつぶるとはつまり現実逃避してという意味である。もしこのヒルクライムが人生ならば、ゴールとはすなわち死ぬ時である。ただひたすら死を目指すのが人生なのか。そうではない。今この眼の前の道こそが人生なのである。辛い。足をつきたくなるほど辛い。しかしこの道中こそが人生そのものではないか。

 

 

 

目をあけろ。楽しいか楽しくないかはとりあえず脇へ置いておこう。それよりもまわりを見たまえ。木々を見たまえ。路面を見たまえ。空気を感じたまえ。今ここに生きている自分を喜びたまえ。人生の現在地を確認したまえ。

 

 

 

そしてぼくはどっと不安な気持ちになる。心がざわついて心臓が口から出そうな変な心拍を感じる。どうしてかと言えば今の自分になにもないからである。ぼくは今いいお父さんをやっていると言っていいだろう。しかしそれは子どもたちが小さいときだけではないか。大きく成長していくに従って金がかかるようになる。今のぼくにその経済力がない。その現実が不整脈のような変な心臓の踊り方をさせるのだ。このどうしようもない不安感で呼吸がまた早くなる。ぼくはこの気持ちが去るのをじっと我慢する。

 

 

 

この得も言われぬ不安感はしばらくすると消えていく。今この山の中で考えても始まらないじゃあないか。あるいはこのくらいでひとつ目の下り坂がやってくる。下りはただ自転車のコントロールに集中するので他のことを考えている暇がない。下りは転じて上りにかわり、ぼくはまたペダルを漕ぎ始める。道中こそが人生。ぼくは景色を見やり悲鳴をあげる筋肉を労りながら上へ上へとあがっていく。

 

 

 

20キロの峠道をおよそ1時間半かけて登り切る。一漕ぎ一漕ぎ漕ぎ続けた結果の登頂である。まさに小さな一歩小さな行動の積み重ねがぼくをゴールへと運ぶ。アランも言っていたなと思う。行動することがなによりも一番大事なのだ。