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なじめない表現

 

 

息子が慣用句を覚えだしてぼくにクイズを出せとせがむ。

 

「覆水」とぼくが言えば、

 

「ぼんにかえらず!」と息子が答える具合だ。息子は算数はからっきしだがこうした言語関係は興味があるようでよく覚えている。次々に息子が答えるからぼくも楽しくなって息子の知らなそうな慣用句をひねり出す。

 

 

 

「過ぎたるは…」

 

「…」

 

「過ぎたるは…?」

 

「わかんない」

 

「過ぎたるは及ばざるが如し、だ」

 

「どういう意味」

 

「要するに何事もやりすぎてはいけない。ほどほど適量というものがあるってことさ」

 

とぼくが教えると息子がこういった。

 

「じゃあ、可愛すぎるってダメなの?」

 

可愛すぎる妹のことを言ったのか、暗に自分を仄めかしたのかわからないがとにかくそう聞いてきた。

 

 

 

「それはね、可愛すぎるという表現が間違っているんだ。とっても可愛いとか、大変かわいいと言えばいい」

 

 

 

と言いながら自分自身可愛すぎるという表現は日常的に使っているではないか。過ぎたるは及ばざるが如し、しかし例外はある。はずるい答えか。そこでこんなことを思い出した。

 

 

 

ここ数年「○○しかない」という表現が目立つ。いや、しかないだけだったら昔からあったが、最近はこの○○の部分にポジティブな言葉を入れることが流行っていて、それがどうにも受け入れられない自分がいるのである。「感謝しかない」はその筆頭だろう。いやいやそれを言うなら大変感謝していますではないか。感謝しかないを見るたびに体の内側からなんともいない気持ち悪いものが出てくる。ああこれは齢のせいか。

 

 

 

やばいがポジティブ表現として使用されるようになったとき、ぼくはそれほど違和感を感じなかった。しかし世間では相当その使い方はやばいよねと話題になったと記憶している。言葉はその使われ方が時代とともに変化していく。そうではないか。今やだれも江戸時代の言葉で話すひとはいない。自分が慣れ親しんだ言葉はすでに多くの改変を経た言葉である。新しい表現に躓く必要などないのだ。自分が生きている時代にその変化に立ち会ったなら、苦虫を噛み潰しているよりも喜んで使ったほうがいいと思う今日このごろ。